好きか嫌いか言われたら、苦手である、という方である。
内藤礼、その名前が作品タイトルような名前の人。名前と作品が同質同一になるなんてそうそうない。それくらいインパクトも存在感もある。作品なのかタイトルなのかもどっちでもいい。
21世紀美術館で開催された「内藤礼 うつしあう創造」展は、ひとりの作家による個展で、かついくつかの作品が館内にあるという贅沢な時間と空間だ。
彼女の作品は観たことがあっても、だいたいが「入場制限」ないし「ご予約制」であるため、鑑賞すらかなわないこともあった。
真っ白な空間に、小指の爪ほどの小さな円形の鏡が壁にポツンとあった。のぞきこむ。そして直感的に気づく。これはここにある1つではない、と。
気付いて後ろを振り返る。後ろの壁(正確には対面の白い壁)をじっと見る。やはりあった、同じ円形の鏡が。
天井の高い真っ白な空間。すでに先客が3、4名いる。どの人もウロウロしている。なにもない白い空間をウロウロしている。ある人は、しゃがみこんでいる。ここで気づく、先客は「何かを見ている」。
しゃがみこんでいる人に近づく。と、見えたのが、小さな小さな水たまり。それもやはり小指の爪程度の水滴だ。最初からあった水滴なのかどうかは分からない。はたして水でできた水滴かどうかも分からない。光があたれば鉛のようにも見えるものだ。
しゃがみこんだ私は立ち上がった。すると、目の前で円を描きながらウロウロする人がいた。ただのウロウロではなく、天井を見上げたりしている。しばらくするとその人は部屋を出て行った。
空間に2名ほどになったところで、監視員の方にたずねた。「何があるんでしょうか?」
監視員の方は、少し困った顔とすまなそうな顔とよくぞたずねてくれましたという3つの複雑なおももちで「ここらへんにあります」と答えてくれた。
ここらへん。
そのとき、同じ空間にいた黒っぽいワンピースを着た女性が横切った。
あ
おねえさん、そこを動かないで!と手で制する私。
見えた
糸が、真っ白な糸が、天井からおりてきていた。
背景が白だと、見えにくい。見えているのに見えていない糸。見えてなかった糸。
「では、あの水たまりは…」と監視員さんに聞いた。
「上から落ちてきていますよ、朝から少しずつ落ちてきて、夕方になるとあのように水たまりっぽくなるんです。」。
落ちてきている。落ちる瞬間は見えるだろうか。と駆け寄って、もう一度探して、また見つけてしゃがみこむ。
近くにいた人は「そんな落ちてくるかどうか分からないものを待っていられない」と時間を気にして出て行ってしまった。私はその「いつ」を気にして、気になって、しゃがみこんで待っていた。
ぽつん
案外早く落ちてきた。ん?ん?
また落ちてきた。意外に早いスピードですよ、先ほどの方。
とはいえこれって、分からないままに通り過ぎて、蹴飛ばしたりふんずけたりする人がいるでしょうに……。
と思って監視員さんに話すと「そうです、今日も3回くらい踏まれました」
ふんだらどうするの?
「そのままです。あまりにも形が変わったりしたら学芸員さんを呼びますが、たいていはそのままです」。
そのまま、そのままで通り過ぎる、作品。
私はもう一つの部屋へ移動した。人が4に入れば密になるようなちょっと狭いホワイトキューブの部屋でやはり天井が高い。
作品リストと設置リストを手にして作品を探す旅のようだ。
観念して再び監視員さんにたずねる。
すると監視員さんは壁に「ここです」
ここ? そこ
そこ? そこ
この日はもうすぐ雨が降る寸前という曇り空で、部屋の中もぼやんとしていて、全体的に美術館の空気もぼんやりしていた。ぼんやりしたかすみがかっているような部屋で、壁をなめるようにみると、これまた糸。今度は色がついている。ようだ。色がついていると見えるのかもしれない。
17時になった。
17時になると、とあるところが電球がつく。これも個展演出の一つ。電球がついたので、再度一から部屋を回る。さきほどのぼんやりした部屋では糸が3割ほど増しで見えていた。
最後の部屋。個展のゴールのような部屋。円形の部屋だ。
吊り下げられた水滴(のようなガラスだろうか)と、小さな鉛の玉。
その空間が、チラシのビジュアルと重なったとき、ああ、これが、と小さなため息が出た。ぞわっとくる、歓喜の悪寒。
下からのぞいたり、左右に動いたり。
水滴が動いているのか自分が動いているのか、自分の身体の感覚に自信が無くなる、浮遊感。
私はこの浮遊感が好きなのだ。
ベネチア・ビエンナーレで私は内藤礼に会ったことがある。あったというか、居たというか。
日本館の代表が内藤礼だった。時間制限、入場制限あり。靴を脱いで入るタイプの作品鑑賞。
中にいた監視員がご本人だった。何もしてないのに威圧感がすごくて、鑑賞どころではなかったと記憶している。
作品が透けたレースで作ったドーム型の中に小さな何かが置いてあり、のぞき込む体勢になる鑑賞だった。ご本人の心象に入り込む感じだった。監視員として座る彼女は、かなりの警戒心を放っていたとも今なら思える。が当時20代前半の私にはおいおいという恐れしかなくて、それ以来 苦手 というわけである。
20年を経て見た彼女の作品は、相変わらず内省的だが、内省の範囲が広がっていた。見にきていいわよ、私ってこんな感じを今考えているの、こういう世界ってどう?という余裕。招かれている余裕があった。
糸が垂らされた部屋、雨粒をまつ小瓶、見えない糸、かなりコンセプチュアルである。そこに政治的な意味や世情を憂うなどナンセンスで。あまりにも、あまりにも、あまりりにも。コンセプチュアルとも言えない。内藤礼の作品がある。ただそれだけで、誰かと何かを系統だてて話すことでもない。
内藤礼 うつしあう創造
金沢21世紀美術館
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1779