現代美術と税金と街づくりと@アートマネージメントシンポジウムⅡ

2019 年11 月 30 日(土)  金沢 21 世紀美術館シアター21
シンポジウムⅡ「観光と美術館のマネジメント」
●基調講演
島 敦彦(金沢 21 世紀美術館館長)
●パネリスト
黒澤 伸(金沢 21 世紀美術館副館長)
泰井 良(静岡県立美術館上席学芸員)
太下義之(文化政策研究者)
●モデレーター
桧森隆一(北陸大学副学長、中部部会会員)
井出 明(金沢大学准教授)

-シンポジウムは金沢21世紀美術館が置かれている状況から説明がはじまった

金沢21世紀美術館ができるひとつのきっかけは「金沢に新しい価値文化を創造すること」が求められていたことにある。「前のままでいい」ではイノベーションはおこらない。小学校、県庁の移転により中心市街地人口が減ることが予想されており、危機感があった。そうしたことから現代美術と現代の市民の文化交流の場を目的として美術館構想がおこった。

いざ構想をはじめると年間30万人が目標になった。県立美術館でも年間27万人が来る。だから年間30万人を達成しようと思うと美術館以外の人も呼ばないと達成できない数値。それなら観光ルートにしよう、準備室ではこの意識を持っていた。

しかし現在は、年間230~250万人が訪れる。鑑賞者に深い経験をしてほしいがサービスが十分ではない。監視員の人が少なく対応しきれていない。監視員を初めて行う人もいる。当然ホスピタリティが落ちる。残念ながら職員数はそのままで、経営もできない。それでいて予算や金額は決まっている。

金沢21世紀美術館ができるとき周囲から反対はあった。「人間国宝は価値が決まっているが、現代美術は50年たつとどうなるのか」と。「価値が決まってないから重要です」と伝えている。年寄りが見ていいものではなく、若い人が見ていいと思えるものを展示したいと。

知ってもらうために市内のすべての小中学生を招くミュージアムクルーズを行った。市民に愛されるとは何か、リピーターはどんな属性の人かを考えたい。小さい頃から本物を見ている人たちが繰り返し来てもらえる美術館。そして経済的社会的インパクトが与えられる場であってほしい。外からの刺激なければ百万石文化に戻ってしまう。

ヤン・ファーブル《昇りゆく天使たちの壁》1993

―観光とアートの関係について

観光と美術館が騒がれたのは文化庁の介入がある。博物館のありかたを検討する会議がある。文化施設を地域振興を含めて活性化する場として考えよう、新しい法律を作ろうという動きがある。

もうひとつ、文化観光に関する検討会議がある。なぜ観光か?それは予算のとりかたのため。別の名目であればなんとなかるお役所の鉄則だ。

政府は2020年は観光客を4千万人の見込んでいる。海外の観光客のほとんどは飛行機で日本に来る。成田と羽田空港はもうパンク寸前。試算したところ地方空港が今の6倍受け入れられれば良い。

-アートと予算、教育、美術館の存在意義について

世界的に評価されていないけれど価値あるものがコレクションとしてある。先人が守ってきたものを今ここで見ることができる。それが美術館・博物館である。

「文化財に税金が使われている」それは国民に分かりやすい。多言語化を政府がうたっているが、実際は同じ文化を共有していないと文化を伝えるのは難しい。日本語を読むのではなく、英語キャプションを日本語に訳した方がとても分かりやすい。海外あるいは国内の社会や文化について小中学生を美術館に連れて行けば文化を分かってもらえるとしたい。

美術館の予算の70%が建物管理の予算。儲からないのは当たり前。民間では誰もやらないから、できないから公立でやっている。

しかし納税者や自治体は公金を使うから効果がほしい。公金を使うから経済波及はどうか、地域経済にメリットがあるか問われる。10億投入したらどこに使われるのかは知りたいのだ。

自治体は人口減のこのままだと税収が減るので稼ぐ必要がある。その説明が必要。「世論なようなもの」があやしい。その説明をすれば分かってもらえる人に説明する。

思うほど一般の人に美術館は知られていない。静岡県立美術館にピカソがあっても、県民は「ピカソは海外から借りてくる作品であって日本にあるものではない」と思っている人が多い。これがあることを知られるために広報が必要。

人はコレクションがいいから来場する。静岡県立美術館はロダンの研究の拠点にしたいということで自治体が要請した観光要素を歴代の館長たちがはねのけた。(それは質を保つためである)

-アート、芸術、税金投入を分かってもらえない人に対して

現代美術作家は基礎研究者だと伝えている。スマホは新しいものだが若い人が作ったものだ。新しいシステムを理解する人がいて思い切ってやらせてみることが大事では。旧い人はできない。

-井出さんの問いかけ

=国民は2割しか美術館に来ていないという結果がある。しかし税金は国民全員が払っている。その間隙はどう埋めるのか?

やることの重要性が大事。過疎化だからあの一軒の家族のために道を通す、そんなところに税金を使うのはおかしい、とは誰も言わない。

展覧会の目標が入館者数ならドラえもん展をすればいい。しかしそれは誰も言わない。今は一人当たりの単価、リピーターの満足度など指標が変わってきている。しかし行政の人は目線が変わらない。3年くらいで入れ替わるし。

展覧会の良し悪しを数字ではかれるものではない。出せるものではない。これ以上質を低下させてはいけない、そういう人がいる。(学芸員である)。数はその土地を好きになってくれるわけではない。

-観光地と美術館の関係について

金沢は2日間あればまわれる。非常にコンパクトな街。ロンドンのテートモダンと金沢は似ている。しかし平安神宮京都国立近代美術館は近接しているが美術館は人が入らない。ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、建てた当初想像もしてなかったダークツーリズムの場の代表になった。。

金沢21世紀美術館に観光目的に来た人に対して、美術をどう感じてもらうのか。体験をしてもらう工夫をしたいが音声ガイドはパワーが必要。せめて入り口になってほしいという思いがある。

(文化においては)コミュニケーションに長けた人が人をつなげる。そこにコストをかけてもいいとおもう役人がいるといい。人とコストのコンセンサスをとってほしい。

スペインのビルバオとビルバオ・グッゲンハイム美術館を例に挙げる。ビルバオは中世から知られた鉄の町で造船工場で栄えた。フランク・O・ゲーリーの建物で有名だが、あの建物は船で栄えたので上から見ると船のかたちになっている。入館すると鉄の作家リチャード・セラの作品がある。これはビルバオのアイデンティティーを表現している。地元で当初は反対があったとは聞いた。なぜなら歴史が複雑なバスク地方にあるから。サン・セバスチャンは美食の町として有名。地方に封印されていたものを解放する、顕在化させることが重要だ。
※参考 Ⅰ. スペイン ビルバオ市における都市再生のチャレンジ」吉本光宏

-島金沢21世紀美術館の館長から

地元の講演会の依頼があるが「やはり現代美術は分からない」と言われる。「分からないを楽しもう」と伝える。現代美術という言葉への抵抗感はある。金沢21世紀美術館は英語表記ではコンテンポラリー(21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa)と書いている。作品を見て分からなかったら、いったん保留にして何年も待つとよい。

-現代美術が提案する町とは

観光客は単なる金づるではない。観光客として来る人も文化を背負っている。3つのTがある「テクノロジー(技術)」「タレント(才能)」「トレーランス(寛容)」があればAI時代が来ても生き残れる。

島袋道浩《箱に生まれて》

-シンポジウムを聞いて

年間30万人のところに250万人(7倍以上!)の来館者があり、観光地化をやっきになってすすめている他館からしたうらやましい悩みである。カウントの仕方にあやふやさがあると前提があったが、その半分だとしても相当な数。学芸員にとっては「美術作品を前に向き合う時間を持ってほしい」という気持ちがあるものの、そうではない次元になっているのもジレンマの様子だった。入りやすくて親しまれている、あるいは憧れの場所になっているという美術と建物と観光の価値を変えたところだと思う。

泰井さんは文化財保護として重要である、美術博物館の役割を唱えていたように思う。井出さんの観光学からの問いかけに闘う印象があった。美術博物館の在り方もそうだが、学芸員の在り方と役割も(外側から求められ)変わってきているように思う。人事異動がないので固定化された印象ぬぐえない。

そもそも国内において税収が減ることが分かり切っている中で誰からお金をいただくか、観光(海外観光客、インバウンド)というところに話がうっすら及んだようだ。観光客を呼ぶものは土地の文化である。ここには食文化も含まれる。

ビルバオは、政治的にも土地柄的にも傷を負った地域なのだ。それも相当な傷。それをいうならドイツのカッセル(ドクメンタ)、韓国の光州(光州ビエンナーレ)も相当な傷を負っていて、その復活として国際美術展の開催を決めた土地。今や国際美術展として世界に名をはせた都市とイベントになった。日本がもし対抗するとしたら「そうではない次元」の提示でするしかない。おそらくそれは今は瀬戸内国際芸術祭、島々という非日常だろう。

行政が文化施設に対して一方的な「来館者数」の目標と、予算の減額は一般市民にも目にうつる。数と金を求めるならやり方はいくらでもあるだろう。文化や芸術の域を知る行政の長に言われるならまだましも、「知らない」と平気で公言するような長の人に、なぜ振り回されるなければいけないのだろう。金沢21世紀美術館に人が来るのは、計画構想をした長が一番理解をしていたからだ(詳しくは金沢の先人に聞きに行ってください)。

シンポジウムを聞いて感じたのは、福井は遅れているどころか始まっていない。ということはいくらでも初められる余地があるということ。どの方向でもどの方面でも行けそうだと。希望的観測を持った。

私はどこかに属した学芸員ではないが、普段している仕事はキュレーションだと思っている。企画立案・選出・交渉・広報・総括など。作品保護については最近ようやく動き始めたところ。美術館に属さなくても美術に携われる方法を探ってやってきた。事業感覚、ビジネス感覚を持ちえないとやっていけないとも思っている。

お詫び:シンポジウムでは発言等をはしょってしまったので、本来の意図とは違う発言になってしまったかもしれない。

 

 

 

 

 

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